暇人のオーディオ

暇人が久々にオーディオを再開します。どのくらい続くでしょうか?

2019年09月

クラシック以外

オーディオは始めた時からずっとクラシック一筋でやってきていて、他のジャンルの音楽をメインのシステムで演奏することは今までほとんどやったことがない。若い頃は、クラシック以外の音楽をかけるとシステムの音が変わる、なんてことを本気で信じていたりもしていた。若気の至り、というか中二病(笑)。それでも、他のジャンルの音楽を全く聴かないかというとそういうわけではなくて、数は多くはないが、CDの在庫も幾つかはある。そういう音源は、普段はPCに圧縮で取り込んで聞いていることが多いのだが、今日はたまたま、改めて聴きたい気分になったらしく、ユーミンのCDを鳴らしてみた。疲れてるのかな。当たり前だが、クラシックとは全く異なる音の作りが面白い。ただひたすらにセンターに鎮座するユーミンを取り囲むように他の楽器がまあるく定位する。こういう聞こえ方は、はたして、いわゆるステレオなのだろうか、と思ったりもするが、まあ、このCDを突き詰めて演奏すれば、また聞こえ方も変わってくるのかもしれない。このシステムだと、そういう鳴り方になる、ということか。それでも、そういうものだと思って聴くと、それはそれで楽しめるのがオーディオというものらしく、しばらくは音楽に浸ることができた。中高大学とそれぞれの時代に心を震わせた名曲の数々が眼前に現れては消えてゆく。やっぱり、少し疲れているようだ。早く寝ましょう。

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バスレフポートの風切り音

現在使用しているCM8は、2011年に購入して以来もう8年の付き合いになる。その前に使用していた同じB&Wの旧705が震災で前のめりに転倒し、ツイーターのアルミドームがカバーごと潰れてしまったために買い換えた。隣県の某オーディオショップで試聴して購入したのだが、鳴らすほどに、繊細な空間の表現と伸びやかな中低音が気に入っている。まあ、もっと高価なスピーカーを導入すれば、”この先の世界”は遥か彼方まで拡がっているのだろうが、買えないものを気にしてもしょうがないので、今のところは壊れない限り買い替える予定はない。ただ、唯一このスピーカーで気になっているのが、バスレフポートの風切り音。チェンバロ独奏のCDで奏者が鍵盤を叩くたびに”パフ、パフ”という音が背面のポートからわりと盛大に響く。中野振一郎や曽根麻矢子の演奏が好きでCDをそれぞれ何枚か持っているのだが、そのほとんどで、パフパフがひどい。だいたい、バッハのチェンバロなんかを聞きたくなる時っていうのは、心を落ち着けてのんびりしたい時が多いのに、パフパフが気になってだんだんイライラしてきたりして、本末転倒も甚だしいことになる。ポートに付属のウレタンプラグを詰めればいいのはわかってはいるのだが、チェンバロの曲を聞くたびにわざわざそれをするのはなんだか負けた(何に?)気がして悔しいのとめんどくさいのでやっていなかったら、去年プラグの方が経年劣化でお亡くなりになった。そんななか今日聴いた中野振一郎のフランス組曲は珍しくポート鳴りがない一枚。これはデノンレーベルだが、同じ奏者の若林工房の録音と比べると、ホール(スタジオ)の息づかいというか、臨場感は一歩譲るが、決して平板な響きというわけではなく、安心して音楽に浸れる。それにしても、自分のシステムのこういう欠点を一つひとつ潰していこうと思うと、いわゆるマニアの陥る”沼”にはまり込んでいくのだろうな。自分はまだその境地には至らないが、いつかそうなってしまうのだろうか。

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サリエリのレクイエム

人間生きていると物事が全てうまくいかなかったりかみ合わなかったりでちぐはぐな日、という1日を経験することがある。まあ今日がまさにそういう日だったのだが、早めに見切りをつけてのんびりするのがいちばんだったりするのにそれが許されない状況で、結局いつもより遅い帰宅となった。疲れてはいるが、うまくいかなかった1日の締めくくりに、なんとなく手に取ったCDを聴く。サリエリのレクイエム。これおそらく買ったときに聴いて以来だな。オランダのペンタトーンレーベルで、音が抜群にいい。小音量でも音像がぼやけず、くっきりとしたステージが表現される。解説によるとこの曲は作曲者が自身の葬式用に作ったものだそうだが、映画”アマデウス”で、サリエリがモーツァルトにレクイエムを作曲させるストーリー(もちろん史実とは異なる)とオーバーラップする。シェーファーはこの辺りをイメージしながらああいう台本を書いたのだろうか。曲調はなんかもっさりした印象で、いかにもサリエリ。この曲が書かれたのは1804年だそうだから、モーツァルトのレクイエム初演から約9年後だが、サリエリはやっぱりサリエリなんだな。仮にもウィーンの宮廷楽長だった人だから、その才能には抜きん出たものがあったのであろうし、今までいくつか買い集めた 彼の作品のCDを聞くと、個々の旋律などは大層美しいと思える曲も多い。でも、共通してそこはかとなく漂ってくるなんとなく大仰な感じは、シェーファーの言うところの”Champion of mediocrities”っていう表現がぴったりくるんだよなあ。聞いていると、自分が卑小な”One of them”であることがより自覚させられるようで、なんだか今日の気分によくフィットする。これ聴いたらもう寝ましょう。

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昼間のオーディオ

土曜の午後はいつもなら家事に割く時間が多くなって音楽を聴く余裕はないのだが、たまたま今日は夜が飲み会で、午前の仕事が終わって昼飯を食ったあとぽっかり空いた時間ができたので昼間のオーディオ。だいぶセッティングが固まってきているが、ケーブルの取り回しを変えてみたり、スピーカーの配置を少しずつずらしてみたりをいまだに繰り返しているのは今日はお休みにして、アールグレイを飲みながらゆっくり音楽を聴いてみる。1枚目はショパンの前奏曲集。1974年の録音で、ポリーニの若き頃の情熱がほとばしるようなみずみずしい演奏。久しぶりに聞いたが、思わずため息が出る。晩年の全てを悟りきったような円熟も、元はこういうきらめくような詩情があってこそなのだろうか。2枚目は1983年録音のバーンスタイン/ウィーンのブラ1。最近オケの鳴り方がさらにヴィヴィッドになってきて聴いていて気持ちがいい。2楽章のヴァイオリンはヘッツェルだろうか。気品のある音が余韻を持って響く。時折聞こえるバーンスタインの唸り声がいいアクセント(?)。終楽章の弦楽合奏部分は圧巻。これぞウィーンの弦、という感じ。久しぶりのゆったりとした週末の午後。出かけるまでもう1、2枚聴けそうだ。次は何にしようかな。

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スピーカーの振り角

スピーカーの配置についてはいろいろな人がいろいろなことをたくさん語っているので、どれが本当でどれがそうでないかはよくわからない。部屋の条件、スピーカーの特色によってもかなり変わるだろうから、原則はあってもおそらく正解はひとつではないのだろう。現在の職場にたどり着くまで就職してから働き口を6つほど渡り歩いてきて、その都度オーディオの置き場所が変わっているのだが、今まではほとんど内振りなしの平行配置にしていた。時々思い立って教科書的な内振りにすると音像が小さくなってかえって定位が曖昧になるのが気持ち悪くて何度も試しては元にもどすことを繰り返していた記憶がある。スピーカーも今のCM8にするまで何回か変えているし、部屋の影響も大きかったのだろうが、もともと声楽はほとんど聴かずにオケや室内楽などを楽しむことが多かったこともあって、スピーカーの間に歌手が立ち上がる、というような表現よりは、ホールでオケを聴いているような拡がりのある空間表現を目指したい、という希望があるので、そういう感想になっていたのかもしれない。そうは言ってもアンプやら何やら新しくした後はセッティングをいじりたくなるもので、改めて内振り角をいろいろ試してみることにしたのだが、内振りなしの平行配置から始めて、内振り角度を(だいたい)5度刻みで増やしていくと、10度とか15度くらいだと、やっぱり定位が曖昧になって具合が良くない。ところがさらに角度を増やしていくと、面白いことに今回は内振り約30度の配置がいちばん空間の表現と定位がしっくりきた。もともとスピーカー間距離とそれぞれのスピーカーから聴取位置の距離がほぼ等しい正三角形配置で、この角度だとスピーカーの正面が聴取位置から見てほぼ正対する。以前なら絶対にしなかった配置だが、これでも音場が狭くならない。L-510はどちらかというと音が前に出てくるタイプのアンプなので内振りでは音場がやや窮屈になってしまうのに対して、L-550AXIIは音場表現がしっかりしているので、内振りの良さが発揮できるようになった、というところだろうか。しばらく使っていて色々なソフトを聴いているうちにまたいじりたくなるのかもしれないが。ドヴォルザークの弦楽セレナーデが美しい響きを奏でる夕べ。湿度の高い日が続くのでハイネケンが美味い。

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ギャラリー
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