最近このブログに登場する音楽ソフトは中古レコードが多いが、CDの方はこのところ新しく購入することがほとんどなくなっていて、体験としての新鮮さという点で中古LPに軍配が上がることが理由のひとつである。ただ、際限なくLPを買い続けているわけでもなく、普段実際に聴いている音楽ソフトはCDの方が多いし、LP、CDいずれの音源でも、馴染みの古株に耳を傾ける日もたくさんある。そんなある日、子供の頃親に買ってもらったベーム/ベルリンのモーツァルト交響曲全集(もちろんLP)の中から40番を聴いていたのだが、そういえばこの全集、全く同じものをかなり後になってCDで買い直していたことを思い出した。その頃自分の手許にはレコードプレーヤーはとっくになくなっていて、もうこのレコードを聴くこともないだろう、と考えたための購入だったが、それからさらに10年以上経って、再びレコードをこんなにたくさん聴くことになろうとは笑。というわけで、このあと続けて同じ音源であるはずのCDをかけて、そこに違いがあるかどうかを聴き比べてみることにした。はじめに聴いているLPの方は、とにかく音が厚い。ホールの音響は控えめで、音場も小さめだが、各楽器、特に弦の分厚い響きが美しく、その圧倒的な存在感が印象に残る音の作りとなっている。中学生の頃は訳もわからず小林秀雄などを読みながら何度もこのレコードを聴いていたことが思い出されてどことなく気恥ずかしい気分になるのはノスタルジーのなせるわざか。続いてCDを聴いてみると、をを、全然違う。まず音場がかなり大きくなって拡がりが出る。それに伴って各楽器の定位もしっかりとしたものになってより臨場感のある音楽が眼前に展開されてくる。音の厚みはやや控えめになるが高音部と低音部のバランスが整えられてオケの全体像の見通しがより明確になっている感じ。同じマスターテープから起こされたと思われる音楽でもこれだけ違うんだね。まあ、この比較だとより分析的に音楽を聴くのであればCDの優位性は揺るがないのだけれど、アナログの甘やかな分厚い響きは、やはり何ものにも代え難い。なにより聴きたい時の気分に応じてこれらを両方聴くことができるという立場のなんと贅沢であることか。オーディオって、いいね。
モーツァルト
特別給付金で買おうとした、いやもう注文はしているのだが、ネットオーディオプレーヤーはまだ届かない。噂によると、バックオーダー抱えすぎて4ヶ月待ちらしい。増産しても需要は限られている縮小均衡のオーディオ業界だからこの程度のことでは新たな対応はしないんだろうし、待つしかないんだろうけれど、複雑な心境ではある。住人を待ち続けてぽっかり空いているラックのスペースをぼんやり眺めながら聴いている今夜のCDは、ピレシュのモーツァルト。最近なんだかブレンデルばっかりだったからね。自分の中の勝手なピレシュの音楽像は、ものすごくヴィヴィッドで心情に訴えかけてくるんだけど、突然予想もしない場所にルバートがかかったり、テンポが変わったり、結構ハラハラドキドキするっていうイメージだが、1989年録音のこのアルバムは、極々真っ当な、といったら巨匠に失礼なんだろうか、落ち着いて音楽に没頭できるモーツァルト。きらびやかな、というのとも少し違う明るさを持ったタッチと、かっちりとした音楽の作りが美しい。はじめは夕飯を兼ねた晩酌のお供として気軽に聞き出したのだが、いつの間にかじっくり腰を落ち着けて聴き入っている自分に気がつく。録音が古いせいかやや小さめな音像だが、しっかりとした空間表現の中に身を置いて音楽の中に浸ることのできるこの時間は、最近すっかり暇人ではなくなってしまった自分にとっては、貴重な瞬間。
エージングとか、しばらく使っているうちに音が変わってくる、ということはオーディオをやっているとよく経験することだが、今回導入したアナログプレーヤーも聞いているうちに出てくる音が少しづつ変化してきた。アナログ特有のゆったりした雰囲気はそのままに、音場が広がり、輪郭がはっきりしてきた印象。なんとなくぼんやりしていた音像のピントが合ってきて、オーディオライクになっている。この変化はカートリッジなのかプレーヤー全体なのかあるいは流用したオルトフォンのケーブルのエージングのせいなのかはわからないが、明らかに良い方への変化。EMI盤、1970年録音のカラヤン、ベルリンのモーツァルト40番は、そのテンポ感と相まって、いわゆる”疾走する悲しみ”が響き、裏面の41番も重厚な和音がひたすら美しい。フルートの響きが特に印象に残るが、この時代は、もしかするとゴールウェイが吹いていたかもしれないなあ、などとぼんやり考えつつ聴く。ノスタルジーももちろんあるが、それ以上に聴くのが楽しくなってきた今日この頃。CDも聴きたいしアナログも楽しくて、時間があっという間に過ぎてゆく。
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